神武様が行く~記紀編さん1300年記念 宮崎市 神武天皇ご東遷キャンペーン ~  神武天皇ご東遷キャンペーン 内容

神武天皇ご東遷キャンペーン

「神話のふるさとみやざき」から、古事記に記された神武天皇のご東遷の道のりを、宮崎神宮大祭と宮崎をPRしながら歩みます。
宮崎と神話でつながる街や、古事記ゆかりの神社を訪ね、これからの新しい旅の提案を出来たらと企画しました。様々な人達とのあたたかい交流の様子をご覧ください。

神武様ご東遷とはクリックで拡大神武天皇は初代天皇にご即位するまでは、神日本磐余彦天皇(かむやまといはれひこのすめらみこと)、ご幼名を狭野命と申し上げました。
天照大御神から五代目の御孫にあたります。鵜葺草葺不合尊(鵜戸神宮ご祭神)の第四皇子で、母は玉依姫命(たまよりひめ)と申します。お生まれは宮崎県西諸県郡高原町(にしもろかたぐんたかはるちょう)大字狭野と言われ、この地には狭野神社(旧宮崎神宮別宮)が鎮座しています。
天皇は皇威を広めようと仰(おっしゃ)って、四十五歳の時に、都を中央に遷(うつ)すべく、宮崎をご出発になりました。先ず宮崎から陸路北へ進まれ湯の宮でお泊り御湯を召され、次に甘漬(あまつけ)や都農(つのう)では武運長久(ぶうんちょうきゅう)のお祀(まつ)りをされ、更に北に向かい美々津の港から船出されたと伝えられています。
皇軍の向かうところ風雲自ら静謐(せいひつ)となり、海路速吸門(はやすいなと)(豊予海峡)も無事に、菟狭(うさ)、岡水門(おかのみなと)、埃宮(えのみや)にお寄りになり、翌年三月には更に高嶋宮に到り、三年を行館(かりみや)に座して軍備を整えられました。
それから浪速(なにわ)の河内国草香邑(かわちのくにくさかのむら)に上陸されたのですが、生駒山(いこまやま)の要害(ようがい)に拠る賊酋長髄彦(ぞくしゅうながすねひこ)は天皇の軍を遮りなかなか降伏しなかったことから、遂に道を改め、海路紀伊国へ熊野路から攻め入られたのです。
此の間、皇兄五瀬命(いつせのみこと)は戦傷の結果遂に薨去(こうきょ)され、また熊野灘では海上暴風の為めに皇兄三毛入野命(みけいりぬのみこと)と稲飯命(いなひのみこと)のご遭難を始め幾多の将兵を失われるなど、苦戦艱難(かんなん)をなめさせられました。
熊野に上陸すると天皇は、険しい山々を踏破され、高倉下(たかくらじ)や八咫烏(やたがらす)の忠勤によって遂に大和を平定遊ばされたのです。丁度日向をご出発になられて七年目の正月朔日(ついたち)、畝傍(うねび)の橿原(かしはら)に宮殿を建てられ「八紘(あめのした)を掩(おお)いて宇(いえ)と為(な)さむ」とおっしゃって、 第一代の天皇にご即位(そくい)遊ばされました。 ここに我が国の建国はめでたく成就されたのです。
そして即位後四年(BC六五七)には 畤(まつりのにわ)を鳥見(とみ)の山中(やまのなか)に立てられ、皇祖天神(みおやのあまつかみ)を祀られ大孝(おやにしたがうこと)を申(の)べられました。                           
※宮崎神宮HPより参照

2012神武様が行くキャンペーンご報告

協力

日向の国 虎屋金城堂 本店雲海酒造株式会社霧島酒造株式会社宮崎カーフェリー株式会社宮崎交通株式会社フェニックス・シーガイア・リゾート公益財団法人みやざき観光コンベンション協会宮崎商工会議所

社団法人 宮崎市観光協会新富町社団法人 日向市観光協会宇佐市観光協会府中町

おかやま観光コンベンション協会大阪観光局和歌山市観光協会熊野本宮観光協会

那智勝浦町観光協会新宮市観光協会社団法人 橿原市観光協会社団法人 伊勢市観光協会

宮崎神宮宇佐神宮岡田宮熊野本宮大社熊野那智大社

熊野速玉大社石上神宮橿原神宮伊勢神宮